2012年01月18日
2012年01月17日
2012年01月05日
2012年01月01日
2011年12月09日
近代の超克
(1993年・講談社文芸文庫、初版・昭和34年)年末に向けて、処分すべき古い雑誌や本を整理するうち、カビ臭いところから出てきた。
ごろりと横になり、全集をめくると手が疲れるので、やはり文庫がよろしい。
この文庫を買った時分は育児に忙しく、買った記憶も、読んだ記憶もない。
問われているのは、「実践」と「実感」、そして「理論」に関する信仰である。
「正直なところ、わたしもまた、それほど「実践」を好んでいるわけではないのだ。たぶん、毛沢東は、その稀なる例外であろうが、理論的に実践家である人物は、概して、いかなる理論家よりも非実践的である、というのが、わたしの年来の主張であって、とりわけわれわれの周囲においては、「理論信仰」や「実感信仰」以上に、「実践信仰」が、害毒をながしているような気がわたしにはするのだが、如何なものであろうか。」
ここで問題とされる「実践」をたとえば戦争体験に置き換えて、是非もなく地獄へ追いやられ、生き残った者の「実体験」から考えてみると、NHK なども盛んに放映しているが、そこには「実践」も「理論」も感じられない。
読み進むうちに、私は小林秀雄と数学者・岡潔の対談を思い出した。小林の側から、岡の発言を見ていくと、まったく歯が立たない。
小林は懐から持ち札を出して、「さあ、どうだ」とばかりに張るのだが、岡は一向に意に介さない風がある。しまいに小林は、
「あなた、そんなに日本主義ですか。」と、上段からドスを抜く構えをしてみせたが、
「純粋の日本人です。いま日本がすべきことは、からだを動かさず、じっと坐りこんで、目を開いて何もしないことだと思うのです(後略)。」
と、あっさり斬り返されてしまう。その岡潔の主張は以下のようなものだ。
・ わかりきったことほどわからない。
・ 一番知りたいことを人は知らない。自分とは何かという問題が、決してわかっていない。
・ 大きな問題が決して見えないというのが、人類の現状です。
・ 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅してしまうような間違いは起こさない。
・ 数学は必ず発見の前に一度行き詰まるのです。行き詰まるから発見するのです。
・ 数学を熱心に勉強するということは我を忘れることであって、根性を丸出しにすることではありません。無我の境に向かわないと、数学になっていかないのです。
・ 知がいかに説いたって、情が承知しない。
・ 個性的なものを出してくればくるほど、共感が持ちやすい。
・ 勘でさぐりあてたものを主観のなかで書いていくうちに、内容が流れる。それだけが文章であるはずなんです。etcetc
無論のこと、私は岡潔の言説をダシに使って、小林秀雄を貶める気などあるわけもなく、いつの世にも存在する「信仰」の在り方を思いやるばかりだ。戦争の口述に使われる広義の「信仰」から、マイ・ブームの集団であるオタク「信仰」まで、流行歌の消滅と共に、世相は淡いながらも共有していると思われた幻想さえ失ったかに見えるが、問題はますますアタマ隠してケツ丸見えのていたらくである。
「しかし、未来にだけ視線をそそぐことは、過去にだけ視線をそそぐことと同様、至極、非現実的な態度であることはいうまでもない。『大衆のエネルギー』のなかでも、再三、強調したように、現在の偶然をキッカケにして、過去の必然と未来の可能とを統一したものが現実というのだとわたしは考える。したがって、「必然性の文学」と同様、「可能性の文学」もまた、わたしの立場からは、ひとしく否定しないわけにはいかないのである。」(「もしもあのとき」)
私はただ、岡潔にならって、気圧計を眺めている。針はすでに stormy を示しているが、嵐の前の静けさだ。
2011年12月01日
国境の果て
地球儀をどちらから見ても構わないが、私は北極から太平洋を見下ろす、つまり地図帳を逆さに見るクセがある。そうするとアジアや極東をとりまく地政学的なバランスが俯瞰できる。そこに偏西風や海流を想定すれば、人やモノが移動する動脈が見える。
その場合、国境という近代の線引きは無視して、自然の流れだけを考える。とはいえ、すでに国境がある以上、太古の昔ならともかく、文脈においては無視するこもできない。李恢成と私は、線引きの有無について、何度か話したことがある。李さんにとって、それは朝鮮半島の現実だが、私にとってはポツダム宣言におけるソ連とアメリカの駆け引き、つまり北海道を分割したかもしれない可能性から、垣間見ることであった。実際、北海道の留萌と釧路を結ぶ線で二分され、朝鮮半島と同様の状態になっていたかもしれない。起こらなかったことも歴史の内である。
北方脅威論の根拠もそこにあった。
それが瓦解したのは、ニクソンとブレジネフの会談ではないか、と私は思う。むろん、毛沢東への接近もあった。1975 年、在日米軍は千歳基地から撤退し、青森の三沢を北方への前線基地とする。ソ連は軍港のウラジオストクを拠点に、極東への睨みをきかすという、軍事的なバランスの構築である。その質草が、北方領土だ、と私は思う。そして「北方領土は日本固有の領土」というスローガンが掲げられた。
日米同盟において、そのスローガンは犬の首輪と同じである。中露に接近しようとすれば、首輪を強く引き戻される。だが、北海道に限っていえば、その首輪こそが工業化を遅らせてきた、と私は思う。地球儀を逆さに見て、列島の中継点にある北海道が、冷や飯に甘んじてきた理由は、アメリカの軍事的な戦略である。緩衝帯であるべき北海道に、工業的な投資をして資源化するほど、ソ連を信用すべきでない。
別な見方をすれば、朝鮮半島に独裁者や軍事政権を容認したようには、北海道だけを分割統治するのは難しいという判断だろう。一億総玉砕を叫んだ国への畏怖があったかもしれない。大東亜共栄圏を唱えた黄色人種への嫌悪をどのように変化させるか。それはプロパガンダの変遷をみれば、想像がつく。しかし、北方領土を解決して、質草を失うことだけは避けたい。
つまるところ、その質草をめぐるやりとりは米露の政治的・軍事的な密約に帰する、と私は思う。
戦後、日本兵のシベリア抑留について、連合国はどれほど関心を示したろう。終戦後の軍事的な優位を保つために原爆や水爆を落とし、いち早く占領して指揮権を取ったアメリカにとって、北海道の分割拒否と北方四島の容認は、当面の政治決着を急ぐための手段であり、その延長上に今も生きているわけだ。
しかし、こうした話は、李さんが書き続けてきた課題と噛み合わない。別に、同じ土俵で和気藹々と語り合う必要もないので、それぞれにそれぞれの道を歩むばかりだが、国境の果てにある血腥い現状や、葬られた累々たる屍について、どこか波長の合うところがあるのだろう、と私は勝手に考えている。
その場合、国境という近代の線引きは無視して、自然の流れだけを考える。とはいえ、すでに国境がある以上、太古の昔ならともかく、文脈においては無視するこもできない。李恢成と私は、線引きの有無について、何度か話したことがある。李さんにとって、それは朝鮮半島の現実だが、私にとってはポツダム宣言におけるソ連とアメリカの駆け引き、つまり北海道を分割したかもしれない可能性から、垣間見ることであった。実際、北海道の留萌と釧路を結ぶ線で二分され、朝鮮半島と同様の状態になっていたかもしれない。起こらなかったことも歴史の内である。
北方脅威論の根拠もそこにあった。
それが瓦解したのは、ニクソンとブレジネフの会談ではないか、と私は思う。むろん、毛沢東への接近もあった。1975 年、在日米軍は千歳基地から撤退し、青森の三沢を北方への前線基地とする。ソ連は軍港のウラジオストクを拠点に、極東への睨みをきかすという、軍事的なバランスの構築である。その質草が、北方領土だ、と私は思う。そして「北方領土は日本固有の領土」というスローガンが掲げられた。
日米同盟において、そのスローガンは犬の首輪と同じである。中露に接近しようとすれば、首輪を強く引き戻される。だが、北海道に限っていえば、その首輪こそが工業化を遅らせてきた、と私は思う。地球儀を逆さに見て、列島の中継点にある北海道が、冷や飯に甘んじてきた理由は、アメリカの軍事的な戦略である。緩衝帯であるべき北海道に、工業的な投資をして資源化するほど、ソ連を信用すべきでない。
別な見方をすれば、朝鮮半島に独裁者や軍事政権を容認したようには、北海道だけを分割統治するのは難しいという判断だろう。一億総玉砕を叫んだ国への畏怖があったかもしれない。大東亜共栄圏を唱えた黄色人種への嫌悪をどのように変化させるか。それはプロパガンダの変遷をみれば、想像がつく。しかし、北方領土を解決して、質草を失うことだけは避けたい。
つまるところ、その質草をめぐるやりとりは米露の政治的・軍事的な密約に帰する、と私は思う。
戦後、日本兵のシベリア抑留について、連合国はどれほど関心を示したろう。終戦後の軍事的な優位を保つために原爆や水爆を落とし、いち早く占領して指揮権を取ったアメリカにとって、北海道の分割拒否と北方四島の容認は、当面の政治決着を急ぐための手段であり、その延長上に今も生きているわけだ。
しかし、こうした話は、李さんが書き続けてきた課題と噛み合わない。別に、同じ土俵で和気藹々と語り合う必要もないので、それぞれにそれぞれの道を歩むばかりだが、国境の果てにある血腥い現状や、葬られた累々たる屍について、どこか波長の合うところがあるのだろう、と私は勝手に考えている。
2011年11月29日
諧謔と一念
十五年ぶりに、某新聞社の催しで、李恢成と会う。
李さんは樺太から引き上げ、札幌の西高から早稲田へ進学した。
デビューした際、同じ札幌の出というので喜んでくれ、朝鮮式の乾杯なのか、腕を組み合わせて、ビールを一気飲みした。
下戸の私はそのあと早々にホテルへ帰り、ゲロを吐いて、ベッドにのびてしまった。そのとき以来の叔父貴分である。
「なんだ、すっかり肥ったじゃないか、わかならなかったよ」と、握手した手をなかなか離さない。
たしかに、私は誰彼となく会う人にそう言われ、口髭もあるから、別人に見えるらしい。だから、人には会わない。
「いつか『四季』をお送りいただき、ありがとうございました」
「えッ、資金なんて送ったことないだろう?」
「いやいや、新潮社から出た本の『四季』ですよ」
「ああ、そうか。そうだった。貧乏なぼくがお金を融通するはずないもんな。アハハ」
相変わらず、李さんは李恢成であった。『四季』で描いた諧謔の精神を私は高く評価しているといえば、生意気だろう。誰の真似でもない、小説を書き続けてきた男の一念から出た、愉快な諧謔がそこにはある。
騒々しい立食パーティーで、近況の立ち話しかできなかったが、私は李さんの一念が変わらぬことに満足した。
李さんは樺太から引き上げ、札幌の西高から早稲田へ進学した。
デビューした際、同じ札幌の出というので喜んでくれ、朝鮮式の乾杯なのか、腕を組み合わせて、ビールを一気飲みした。
下戸の私はそのあと早々にホテルへ帰り、ゲロを吐いて、ベッドにのびてしまった。そのとき以来の叔父貴分である。
「なんだ、すっかり肥ったじゃないか、わかならなかったよ」と、握手した手をなかなか離さない。
たしかに、私は誰彼となく会う人にそう言われ、口髭もあるから、別人に見えるらしい。だから、人には会わない。
「いつか『四季』をお送りいただき、ありがとうございました」
「えッ、資金なんて送ったことないだろう?」
「いやいや、新潮社から出た本の『四季』ですよ」
「ああ、そうか。そうだった。貧乏なぼくがお金を融通するはずないもんな。アハハ」
相変わらず、李さんは李恢成であった。『四季』で描いた諧謔の精神を私は高く評価しているといえば、生意気だろう。誰の真似でもない、小説を書き続けてきた男の一念から出た、愉快な諧謔がそこにはある。
騒々しい立食パーティーで、近況の立ち話しかできなかったが、私は李さんの一念が変わらぬことに満足した。
Posted by 土居 良一 at
23:58
│Daily Sight
2011年11月20日
くれない

これは昭和54年の39刷です。
初版が昭和27年だから、まだ生まれてない。そして昭和54年といえば、デビューした頃。
100円コーナーにある佐多稲子は、見過ごすことができないので、『夏の栞』とかも4冊ほど持っている。
あまりページをめくった感じのない30年あまり前の文庫をひらいて、思わず溜息をつく。39刷ですよ。
初版の〇〇!と陰口を叩かれ続けて、すでに還暦も見えてきた。少年老い易く学成り難し。
2011年11月18日
2011年11月11日
海洋奇譚集
(知恵の森文庫・2004年)83年に白水社から出たのを買った。それは屋根裏にある、たぶん。
ド・ラ・クロワその人がなつかしいというか、事実は小説より奇なりを思い出す。
奇譚集とあるけど、荒唐無稽な空想ではなく、ノンフィクションものです。おそらく、一般の読者には想像の及ばぬ領域なので、そのあたりの線引きを愉しませる。実際、取材と称して暇つぶしに地裁へ行き、毎週のように「人殺し」を見物していた時分に実感させられた、犯行の「奇異なる細部」やら「信じがたい動機」やら、「捕まるまでの経緯」など、凡庸な作家が一生かかっても思いつかぬ驚きに満ちていたが、それが戯作者修行の肥やしになったかといえば、私はそんな風に見ていなかった。一歩まちがえば、自分も被告席にという妄想を抱くことなく、驚きながらも、それは法廷で見聞する驚きに過ぎなかった、と思う。それはたぶん、私自身が「ココロの闇」なんて言葉を信じていないからだろう。
2011年11月10日
大英帝国衰亡史
(PHP文庫・2004年)家人が歯科で治療をする間、近くのブック・オフで暇をつぶしながら、100円の文庫を数冊買う。
まずは歴史を俯瞰する下地として、海運による植民地支配・経営の流れを読むには最適な一冊でしょう。
2011年11月01日
滝ノ上まで
小春日和なので、滝ノ上まで車で走る。どう近道をしても片道80km ほどある。その距離よりも、夕張への道は重たく感じる。
仕事としてトラックで走るぶんには仕方ないと思い、さっさと走り抜けていたが、私用を先延ばしにしてきたのは、なんとなく重い気分になるからだ。曇り空だと、行く気になれない。しかし、雪が降れば、来春まで行かないのはわかっているので、昔の話を聞き取りに向かった。
ありふれた限界集落の一風景。いずれ砂利道も消えて一帯は自然に戻る。
私が訊いておきたかったのは、清水沢発電所ができて、夕張が全盛を迎える直前に、なぜ祖父は他の土地へ移ったのか。
「組ば作って、トンネル工事に行ったんでねえか。どこのトンネルかわからんけど、日高のほうだ。その方がカネになると思ったのと、ハッパをやってる人だったから、腕をかわれたんだろうね。そのうち三石へ行って、港がねえから、海の岩盤をハッパで飛ばしたり、そんな仕事やってた。多い時で20 人くらい使ってたんでねえか。日本人ばかりでない。現場ならタコ部屋みたいなもんだべ」
やはりそうか、と私は思った。記憶にある祖父は、脳梗塞で身動きのままならない状態にあったが、当時ではめずらしい大男だった。まさに棒頭として、うってつけの威圧感があった。小学生の私が一度か二度、三石の実家で見た祖父の面影で、今でも覚えているのは、冷徹な眼差しである。それは実際に、手を下したことはなくとも、相手を死に追い込んだり、死ぬさまを見つめていた眼だろう、と思う。
「戦争ば行って、軍艦さ乗ってたらしい。山本五十六が乗ってたやつ。そこで通信兵みたいに、手旗信号やってたけど、熱を出して下船したから、戦死しないで帰ってきたって聞いたぞ」と言いながら、でかい薪ストーブに木っ端をくべる。
そんな話は亡父からも聞いたことがない。ふ~ん連合艦隊ですか?と心中で頭をかしげた。祖父が武蔵に乗っていたとすれば、勇んで志願したのだろう。五十を過ぎた、かつての棒頭が、船艦の上で手旗を振るなんぞは、思いもつかない光景だ。
炭鉱やら開拓やら、いろんな意味合いで「国策」の上に立ってきた生き様を思いやった。
「叔父ちゃん(亡父)は補給の方にいたから、あんまりドンパチはやってねえと思うぞ。台湾から帰還したんだね。おれか? おれんとこは樺太で終戦になって、おいちゃん(自分)は豊原にいたんだ。そんで急いで船に乗るために、大泊に行ったけど乗り遅れてな。先に行った貨物船は湾を出たところで魚雷にやられた。あれに乗ってれば死んでたな。それでオホーツクの方ばぐるっとまわって、函館まで帰ってきたんだ」
そこで、おいちゃんは過去帳を出してきた。私は祖父の戒名すら知らずにいた。しばし墓の話になる。
「前の住職は、共産党に入って、除名されたから、寺もなくて、貧乏こいてたな」
法華宗と共産党の組み合わせに違和感を覚えるというより、さもありなんと私は思った。
終戦後、一族は三石に戻り、亡父は札幌に出て警察予備隊に入る。そこで母と知り合い、結婚することになるが、三石では材木店に勤めていたという。しかし、将来性がないので都市へ出た。祖父は相変わらず組を作り、土木など「ハッパの仕事」を続けていたが、請負であちこちの現場へ出向いたらしい。九州から連れてきて、ご詠歌を教えていた実の祖母とは離婚して、飯炊き女を後妻にすえ、この後妻は100 歳で今も生きているが、もう話を聞くことはできない。
「おれは半端な歳で豊原から引き上げてきたから、学校さ行ってねえんだ。爺さんが行け行けいうから、仕方なく家は出るけど、浜さ行って遊んでたわ。歳が五つも六つもちがう子供らと一緒にな、勉強なんかできんべや。そのときは十五か六になってたから、はじめは漁師やったけど、時化たら銭にならんべさ。そんで一丁前の顔して、山の仕事さするようになったんだ」
といったような話を一時間ばかり聞いて、また来るわと外に出た。そして帰る前に近くの公園に寄る。
最も水の少ない時期で、紅葉も終わっていた。
夕張川は、「川の流れのように」と歌われる川とは、まったく異質である。かつては石炭で黒く濁り、血腥いけはいが漂い、渦巻く欲望のように荒々しい川だ。千鳥ヶ滝も景勝地には見えない。明治の開拓期に、夕張は内陸部の町として、最も早く拓けたところである。
石炭を積み出すために小樽まで鉄道が敷かれ、人足の集まるところに、宗教や政治家や組合をはじめ、その下には〇〇組と称するヤクザ(人足集め)や博徒、酌婦などが「国策」で落ちるカネに群がった。原発ジプシーと同じ搾取の構造は、明治期から、なんら変わらない。
しばらく見ないうちに、風化の進んだ旧・発電所。
夕張について書けという依頼を受けたことがある。しかし、それを書くには徹底したファルスが必要だ。
喜怒哀楽をほどよく取り混ぜた「炭鉱物語」では終わらない。「鰊場物語」も同様だ。「国策」と「拓殖」の違いはあれ、ヒューマニズムを廃した、強靭なファルスによってのみ、可能性はあるかもしれないが、今は無理にでもそれを書こうという気になれない。
そんなアタマでひねくり出すことより、閉山まで炭鉱に雷管をはこび、マチの隅々まで知り尽くしたおいちゃんの一世一代をふり返る方が、よほど書き手としては安全かもしれない。それでも書かないだろう。「マチの歴史」を重いと感じる私の方が、不当に軽いのである。
仕事としてトラックで走るぶんには仕方ないと思い、さっさと走り抜けていたが、私用を先延ばしにしてきたのは、なんとなく重い気分になるからだ。曇り空だと、行く気になれない。しかし、雪が降れば、来春まで行かないのはわかっているので、昔の話を聞き取りに向かった。
私が訊いておきたかったのは、清水沢発電所ができて、夕張が全盛を迎える直前に、なぜ祖父は他の土地へ移ったのか。
「組ば作って、トンネル工事に行ったんでねえか。どこのトンネルかわからんけど、日高のほうだ。その方がカネになると思ったのと、ハッパをやってる人だったから、腕をかわれたんだろうね。そのうち三石へ行って、港がねえから、海の岩盤をハッパで飛ばしたり、そんな仕事やってた。多い時で20 人くらい使ってたんでねえか。日本人ばかりでない。現場ならタコ部屋みたいなもんだべ」
やはりそうか、と私は思った。記憶にある祖父は、脳梗塞で身動きのままならない状態にあったが、当時ではめずらしい大男だった。まさに棒頭として、うってつけの威圧感があった。小学生の私が一度か二度、三石の実家で見た祖父の面影で、今でも覚えているのは、冷徹な眼差しである。それは実際に、手を下したことはなくとも、相手を死に追い込んだり、死ぬさまを見つめていた眼だろう、と思う。
「戦争ば行って、軍艦さ乗ってたらしい。山本五十六が乗ってたやつ。そこで通信兵みたいに、手旗信号やってたけど、熱を出して下船したから、戦死しないで帰ってきたって聞いたぞ」と言いながら、でかい薪ストーブに木っ端をくべる。
そんな話は亡父からも聞いたことがない。ふ~ん連合艦隊ですか?と心中で頭をかしげた。祖父が武蔵に乗っていたとすれば、勇んで志願したのだろう。五十を過ぎた、かつての棒頭が、船艦の上で手旗を振るなんぞは、思いもつかない光景だ。
炭鉱やら開拓やら、いろんな意味合いで「国策」の上に立ってきた生き様を思いやった。
「叔父ちゃん(亡父)は補給の方にいたから、あんまりドンパチはやってねえと思うぞ。台湾から帰還したんだね。おれか? おれんとこは樺太で終戦になって、おいちゃん(自分)は豊原にいたんだ。そんで急いで船に乗るために、大泊に行ったけど乗り遅れてな。先に行った貨物船は湾を出たところで魚雷にやられた。あれに乗ってれば死んでたな。それでオホーツクの方ばぐるっとまわって、函館まで帰ってきたんだ」
そこで、おいちゃんは過去帳を出してきた。私は祖父の戒名すら知らずにいた。しばし墓の話になる。
「前の住職は、共産党に入って、除名されたから、寺もなくて、貧乏こいてたな」
法華宗と共産党の組み合わせに違和感を覚えるというより、さもありなんと私は思った。
終戦後、一族は三石に戻り、亡父は札幌に出て警察予備隊に入る。そこで母と知り合い、結婚することになるが、三石では材木店に勤めていたという。しかし、将来性がないので都市へ出た。祖父は相変わらず組を作り、土木など「ハッパの仕事」を続けていたが、請負であちこちの現場へ出向いたらしい。九州から連れてきて、ご詠歌を教えていた実の祖母とは離婚して、飯炊き女を後妻にすえ、この後妻は100 歳で今も生きているが、もう話を聞くことはできない。
「おれは半端な歳で豊原から引き上げてきたから、学校さ行ってねえんだ。爺さんが行け行けいうから、仕方なく家は出るけど、浜さ行って遊んでたわ。歳が五つも六つもちがう子供らと一緒にな、勉強なんかできんべや。そのときは十五か六になってたから、はじめは漁師やったけど、時化たら銭にならんべさ。そんで一丁前の顔して、山の仕事さするようになったんだ」
といったような話を一時間ばかり聞いて、また来るわと外に出た。そして帰る前に近くの公園に寄る。
夕張川は、「川の流れのように」と歌われる川とは、まったく異質である。かつては石炭で黒く濁り、血腥いけはいが漂い、渦巻く欲望のように荒々しい川だ。千鳥ヶ滝も景勝地には見えない。明治の開拓期に、夕張は内陸部の町として、最も早く拓けたところである。
石炭を積み出すために小樽まで鉄道が敷かれ、人足の集まるところに、宗教や政治家や組合をはじめ、その下には〇〇組と称するヤクザ(人足集め)や博徒、酌婦などが「国策」で落ちるカネに群がった。原発ジプシーと同じ搾取の構造は、明治期から、なんら変わらない。
夕張について書けという依頼を受けたことがある。しかし、それを書くには徹底したファルスが必要だ。
喜怒哀楽をほどよく取り混ぜた「炭鉱物語」では終わらない。「鰊場物語」も同様だ。「国策」と「拓殖」の違いはあれ、ヒューマニズムを廃した、強靭なファルスによってのみ、可能性はあるかもしれないが、今は無理にでもそれを書こうという気になれない。
そんなアタマでひねくり出すことより、閉山まで炭鉱に雷管をはこび、マチの隅々まで知り尽くしたおいちゃんの一世一代をふり返る方が、よほど書き手としては安全かもしれない。それでも書かないだろう。「マチの歴史」を重いと感じる私の方が、不当に軽いのである。
Posted by 土居 良一 at
21:21
│Daily Sight
2011年10月27日
恥部の思想
(講談社文芸文庫・1991年 / 初版・昭和40年)花田清輝を何から読みはじめたらよいかと訊かれたら、とりあえず本書を薦める。たとえば、黒澤明の『羅生門』について、
「しかし、虎を描いて犬に類するような作品をつくったからといって、かならずしもリット監督(『羅生門』を真似て『暴行』という映画を撮った男)を下手だときめてしまうことはできないかもしれません。ニセモノの虎を描いているうちに、つい、そのニセモノの正体である、ホンモノの犬を描いてしまった作家を、誰が下手だといいきれましょう? 『羅生門』という映画はニセモノの虎であります。そして原作者である芥川龍之介の『藪の中』という小説もまたニセモノの虎であります。そして、その小説の原作である『古今物語』のホンモノの犬が、ニセモノの虎に変わってしまったのは、わたしには、主として、芥川龍之介の、みただけでは、イギリス製やアメリカ製の小説と区別のつかない、日本製の小説をみずからの手でつくりだしたいといったような野心のおかげのようにおもわれてなりません。事件に関係した人物の幾つかのモノローグを並べることによって、各人各様の事件に対する反応ぶりを示し、おのずから事件の真相をうかびあがらせる――あるいはまた、事件の真相など永遠にわからないものだといったような作者の哲学を述べる手法は、いまでは、あまりにもありふれたものになってしまいましたが――しかし、『藪の中』という小説のかかれた当時には、まだいくらか新鮮だったのでしょう。(中略)くりかえしていいますが、資本主義社会における理想的な商品はことごとく安物の模造品でなければなりません。したがって、わたしは、『藪の中』という小説が模造品であることを非難しているのではなく、むしろ、賞讃しているのです。」(「日本製ということ」)
本当に食えないオヤジである。わたしは虎でも犬でもない、狛犬について書くべきかもしれない。
2011年10月25日
俳優修業
(講談社文芸文庫・1991年 / 初版・昭和39年)つい先日のことである。歳の頃は20代の半ば、茶髪で、破れたジーンズ姿の娘が突然やってきた。
玄関をあけたオカカに対して、はじめは使っていない切手や葉書はありませんか、震災の募金で歩いている、という口上から、次第にイヤリングやネックレスの古いやつでもかまいません、と本音が出てきた。そこでわたしが応対に出て、けしからんやつだ、と退治した一幕。
「おまえは、例の押し買いというやつか?」
「そういうのじゃありません。募金のために歩いてます」と、涼しいブス顔でのたまう。
「貴金属を買い取るんじゃねえんなら、おまえは募金詐欺をやってるのか?」
わたしは名刺があるなら見せろと言ったが、娘が出してきたのは、古物商の認定カードだけだ。
「貴金属があると、心臓ペースメーカーを造る際に役立つんです」
「おまえはさっき震災の募金と言ったよな。ペースメーカーと何の関係があるんだ?」と、ここでオカカを居間に入れ、わたしはおもむろにしゃがみ込んで、ブス娘を見上げた。「押し買いじゃねえ、募金詐欺でもねえとしたら、おまえは乞食か? ふざけんなよ、このガキ。こんなカード一枚で、図々しいマネをしてんじゃねえよ、この薄ら馬鹿。コンビニで働け!」と、カードをはじき飛ばした。
そこで小娘は何事か反論しかけたが、わたしはとっさに立ち上がり、いかにも驚いたように眼をみひらいて、「いるいる、そこに映ってるぞ!」と娘の背後にある姿見の鏡を指さした。娘は何事かとふり返ったが、みずからのブス顔が見えるばかりだ。「おまえには生き霊が憑いてるぞ。てめえじゃ見えないんだろう。チンケな生き霊だな。おまえにそっくりだ。もういいから出ていけ。この辺りをうろついたら、マッポを呼ぶぞ」と言うなり、わたしはかねて玄関に用意してある塩を一握りつかみ、ドアを蹴って、「さっさと消えろ、この乞食が!」と、小娘の顔に塩を投げつけた。
断るまでもなく、我が家のピンポンには「セールス・勧誘お断り」の札が貼ってある。
それでもうるさいやつが来るので、右と左に「宗教お断り」と「リフォーム無用」の札を貼りだした。
下手にチャイムを押した者は用件を述べる前に、「てめえ押したな。押すなと書いてあるのに、なんで押したんだ」と糾弾される。
以上、本書とは何の関係もないが、普段から、こうした稽古をすべきではないか、と自分の宿題にしている。
募金詐欺や架空募金については、すでに最高裁の判決がある。が、年寄りばかりの町内をまわり、ロハで金品をちょろまかす性根の卑しさは、どこから来るのだろう。たとえば、小娘が美人で、家にわたし一人しかいない状態で、妙なスケベゴコロから「まあ、お茶でも飲んでいきなよ」と居間に上げてしまったら、アウトである。やったやらない、言った言わないの話になってしまう。玄関で塩をまくのが一番だ。
19 歳の頃だったか。「天井桟敷」の劇団員と名乗る男から入団を勧められたことがある。寺山修司は好きだが、その上から目線での物言いが気に入らず、言下に断った。どうせ劇団をやるなら、シナリオくらいは自分で書くが、しかし、女癖の悪さを自覚していたわたしは、行く末を見通して、それだけは避けてきた。手間暇かけてナンパするくらいなら、サービス業のソープへおもむく現金主義でいたのだ。
ところで、本題の「俳優修業」はつまるところ「戯作者修行」に通じるものである。
わたしが本書から学んだのは、誰の視点でモノをみるか、という複合的な立ち位置かもしれない。
大塩平八郎の乱が先にあったのか、『歌舞伎年表』や『四徳斉雑記』から背景が見えてきたものか。むろん、後者に対する碩学なくして成り立つものではないが、流れとしてのクライマックスが平八郎の乱と重なる「ほうずき屋敷」にあることは、何度読んでも、そう見える。しかし、歳を重ねるごとに、別な視点を見いだして、稀代のイジワル爺さんの懐の深さを味わえる。
2011年10月23日
修羅の表情
(1974年・筑摩書房)本書を読んだのは、いつのことだったろう。十九か、二十歳か。
今でも鮮明に覚えているのは、1976年の冬に米国の地方都市に暮らし、日本レストランでバイトをしていた頃のことだ。そこに北米毎日の老記者がよくやってきた。そして何かの拍子に、小林秀雄の話から、大喧嘩をやらかした。小林氏の全集を貸してあげるから読みなさい、日本のことがよくわかる、という意味の発言に、わたしがはげしい怒りをぶつけたとき、本書に書いてあることを思い出したのだ。
当時の赤線が引いてある部分を以下に少し挙げてみよう。花田清輝の言葉である。
・戦時中、わたしは、「日本的な独自性」などというものを、まったく無視していた。それは、かならずしもわたしが、わたしの周囲で、「日本的な独自性」をふりまわしている連中に反感をいだいていたからではない。わたしにとっては主としてアメリカと中国だけが問題であって、日本というちっぽけな島まど、まるでわたしの眼中になかったからである。たぶん、わたしが、そういうものの見かたをするようになったのに大いにあずかって力のあったものは、カントロウィチの『支那制覇戦とアメリカ』という一冊の本であろう。そこには、三十年代のアメリカが、太平洋をへだてて、虎視たんたんと中国をうかがっているありさまが、あざやかに描かれていた。日本など、アメリカの函数的存在にすぎなかった。たとえばアメリカの中国への輸出の大部分は、すべて日本の手をへておこなわれているのである。したがって、わたしは、中日戦争を、中米戦争としてとらえ、つづく太平洋戦争を完全に黙殺した。そして、君は日米のあいだには、絶対に戦争がおこらないといっていたが、げんにおこったじゃないか、などといって詰問されると、あれは一つのムジナの小ぜりあいだ、と泰然自若として答えた。じっさい、そうおもいこんでいたのである。そして戦後にいたっても――いや、六十年代にはいった現在においても、依然としてわたしは「日本的な独自性」など、すこしも信じてはいないのだ。そういうわたしが、戦時中、情けないことになったねえ、とせせら笑われ、そして、いままた、わたし自身を、情けなくなったねえ、とせせら笑わなければならないのは、当然のことというほかない。(「日本人の感情表現」)
北米毎日の老記者は『無常ということ』について熱弁をふるったのだが、私はアメリカに生きるその老紳士が島国根性のカタマリに見えて、腹を立てたのだと思う。未だにカントロウィチを読んでいないが、満州鉄道の成り立ちを調べれば、およその想像はつく。先日、NHK で放映した「圓の戦争」を観ても、傀儡の何たるかがわかるだろう。アメリカは物資や武器の輸出を通して、側面から日本の戦略を支援していた。19世紀から延々とつづく列強の中国侵略において、所詮は「函数的存在」と見なされても仕方のない動きをさせられていた。そして間接的に解体が進んだところで、米英はおもむろに腰をあげ、圓に対抗すべく資金を投入する戦術に出た。そこに一連のつながりとして俯瞰すべき流れがある。実際、花田清輝の全集で第一巻は支那の経済について、細かく分析している。
何故そんなことをしたのか。おそらく花田氏は三十年代の大恐慌に際して京大の学生を辞め、九州の実家に戻って、さらに上京したあとも、空腹の飢えを抱えていたからではないか。〇〇〇イズムの前に、帝国のせめぎ合いがあり、それは現在も継続されている。
今更に、日本はアメリカの属国だと憂国を訴える人は、もう一度、「日本的な独自性」を定義して、考えをつめたほうがよい。
対アメリカ・対中国・対ロシアなど、包括的な見方を示さずに、属国という二国間の関係に拘泥しているかぎり、アメリカの思うツボであろう。
一見さりげなく憂国の士を装いながら、しまには「日本は核武装すべき」という馬脚を臆面もなく表明したり、エコだエコだと言いながら「やはり原発は必要」を唱える輩がいることを忘れてはならない。見渡せば白髪のブルータスばかり。
しかも、老い先の短い爺さんどもは、無責任のままに、無常を覚えることすらなく、くたばるだけある。
2011年10月16日
メモ 6-2
『福井県の歴史』(2000年・山川出版社)から、少し拾ってみましょう。
・海上交通については、敦賀と三国が良港として名高く、甲楽城(かぶらき=南条郡河野町)・気山津(きやまつ=三方郡三方町)・西津(小浜市)などもかなりの賑わいをみせた。なかでも敦賀は、『日本霊異記』の楢磐嶋(ならのいわしま)の話、『今昔物語集』の「敦賀の女の物語」などにみられるように、商業の中心として繁栄ぶりをみせていた。
・(平氏政権下では)越前ではすでに(藤原)利仁(とひひと)将軍末裔で、前代より国の押領使や追捕使に任じられたと称する疋田系と河合系の両斉藤が武士団としての勢力をきずいていた。注目すべきは両斉藤氏のなかから、賢厳(けんげん)・広命(こうめい)・斉命(さいめい)が平泉寺長吏(指導者)の地位についていることであり、斉藤氏と平泉寺の結びつきが強められつつあった。
・日本海東北部の廻船に関しては、喜元四(一三〇六)年九月に坂井郡三国湊と崎・梶・安島の三ヵ浦の刀
禰(とね=浦人を率いる刀禰職として領主から安堵された人)たちが、「関東御免津軽船二十艘)内の「大船」とされる越中東放生津(新湊市)本阿の船を「漂倒船」と称して積荷を奪うという事件をおこしており、このころ鎌倉幕府から特権を与えられた廻船二〇艘が津軽とのあいだを往復していたことがわかる。
・時宗を開いた一編の後継者である他阿新教は平泉寺に妨害されながらも布教を続け、正応三(一二九〇)年に坂井郡長崎(丸岡町)に称念寺を開いたとされる。称念寺の地は長崎船寄という舟運の拠点であり、開基となった称念房ら三兄弟はここで倉を有して交易をいとなんでいた有徳人であったという(「称念寺縁起」)。
・小浜はまた北の津軽ともつながっていた。永享七(一四三五)年に焼失した羽賀寺再建には「奥州十三湊日之本将軍」安倍(安藤)康季の助力を得てなされており、長禄元(一四五七)年のコシャマインの乱を鎮圧した武田信広は若狭守護武田国信の子で上国(北海道道南)守護の蠣崎季繁の客将となっていた人物であった。寛正四(一四六三)年には小浜で「十三丸」という大船をめぐって一色氏の被官と武田氏の相論がおこっているが、この船はその名前からして津軽十三湊を往復していた船であったと思われる。
・「時宗過去帳」によれば、長崎称念寺を拠点に時宗門徒が今立・南条郡にも広がっていたことがわかる。
といった次第で、時衆の布教について考えるとき、廻船による交易で財を成した有徳衆の存在は見逃せない。
私はこれを武家の「武」に対して、商業・宗教・文化を包括する「商・宗・文」が合体した勢力として、「海族衆」と呼んでいる。
・海上交通については、敦賀と三国が良港として名高く、甲楽城(かぶらき=南条郡河野町)・気山津(きやまつ=三方郡三方町)・西津(小浜市)などもかなりの賑わいをみせた。なかでも敦賀は、『日本霊異記』の楢磐嶋(ならのいわしま)の話、『今昔物語集』の「敦賀の女の物語」などにみられるように、商業の中心として繁栄ぶりをみせていた。
・(平氏政権下では)越前ではすでに(藤原)利仁(とひひと)将軍末裔で、前代より国の押領使や追捕使に任じられたと称する疋田系と河合系の両斉藤が武士団としての勢力をきずいていた。注目すべきは両斉藤氏のなかから、賢厳(けんげん)・広命(こうめい)・斉命(さいめい)が平泉寺長吏(指導者)の地位についていることであり、斉藤氏と平泉寺の結びつきが強められつつあった。
・日本海東北部の廻船に関しては、喜元四(一三〇六)年九月に坂井郡三国湊と崎・梶・安島の三ヵ浦の刀
禰(とね=浦人を率いる刀禰職として領主から安堵された人)たちが、「関東御免津軽船二十艘)内の「大船」とされる越中東放生津(新湊市)本阿の船を「漂倒船」と称して積荷を奪うという事件をおこしており、このころ鎌倉幕府から特権を与えられた廻船二〇艘が津軽とのあいだを往復していたことがわかる。
・時宗を開いた一編の後継者である他阿新教は平泉寺に妨害されながらも布教を続け、正応三(一二九〇)年に坂井郡長崎(丸岡町)に称念寺を開いたとされる。称念寺の地は長崎船寄という舟運の拠点であり、開基となった称念房ら三兄弟はここで倉を有して交易をいとなんでいた有徳人であったという(「称念寺縁起」)。
・小浜はまた北の津軽ともつながっていた。永享七(一四三五)年に焼失した羽賀寺再建には「奥州十三湊日之本将軍」安倍(安藤)康季の助力を得てなされており、長禄元(一四五七)年のコシャマインの乱を鎮圧した武田信広は若狭守護武田国信の子で上国(北海道道南)守護の蠣崎季繁の客将となっていた人物であった。寛正四(一四六三)年には小浜で「十三丸」という大船をめぐって一色氏の被官と武田氏の相論がおこっているが、この船はその名前からして津軽十三湊を往復していた船であったと思われる。
・「時宗過去帳」によれば、長崎称念寺を拠点に時宗門徒が今立・南条郡にも広がっていたことがわかる。
といった次第で、時衆の布教について考えるとき、廻船による交易で財を成した有徳衆の存在は見逃せない。
私はこれを武家の「武」に対して、商業・宗教・文化を包括する「商・宗・文」が合体した勢力として、「海族衆」と呼んでいる。
2011年10月15日
メモ 6―1
前にもご紹介しましたが、参考として再録します。
(平成16年、北國新聞社)
國學院大學によるフォーラムで、以下のように指摘しています。
「(前田家には)八軒の一万石以上の上級家臣、それがおりますけれども、その家を見ると、例えば、一番石高が高いのは五万石の本多家。これは、徳川家康の重臣でありました本多正信の息子が前田家に召し抱えられています。その次には、三万三〇〇〇石の石高をもっている長(ちょう)家。長家はもともと能登で活躍した戦国大名であります。前田が勢力を拡大する中で家臣になった家です。(中略)」
「武家について申し上げますと、前田家の藩老、年寄衆でありました長家の家臣、つまり加賀藩主前田家の陪臣でありました河野家という一八〇石の知行取りの武士がいるのですが、ここの『年中行事帳』が残っております。それによりますと、この家の当主は、正月の元旦に、氏神様である下安江の住吉大神宮(現安江住吉神社)へ裃姿でお初穂を持って初詣に赴き、翌二日には、壇那寺の寺町の開禅寺(曹洞宗)に年頭のあいさつに行っております。(中略)また金沢には、江戸時代において既に伊勢の御師によって、たくさんの大神宮(伊勢神宮)の御札が配布されているわけでして、加賀国で一番多いのが外宮(げくう)の松木神社で、四万一四三〇戸の檀家を有しております。今ほど申しました加賀藩前田家の陪臣でありました河野家は、能登で多くの檀家を持っておりました伊勢外宮の釜谷大夫の壇那で、金沢では八〇軒ぐらいしかなかったようですが、ここから毎年大神宮の御札が届けられていました。」
河野姓の者は何でも当たってみるというか、本拠が能登で、長家の家臣であったことに眼が向かう。
東北のみならず、北海道のあちこちで、珠洲焼きが発掘されている時代性を考えさせられる。
この長一族をじっくり調べるのも面白いかもしれません。
(平成16年、北國新聞社)國學院大學によるフォーラムで、以下のように指摘しています。
「(前田家には)八軒の一万石以上の上級家臣、それがおりますけれども、その家を見ると、例えば、一番石高が高いのは五万石の本多家。これは、徳川家康の重臣でありました本多正信の息子が前田家に召し抱えられています。その次には、三万三〇〇〇石の石高をもっている長(ちょう)家。長家はもともと能登で活躍した戦国大名であります。前田が勢力を拡大する中で家臣になった家です。(中略)」
「武家について申し上げますと、前田家の藩老、年寄衆でありました長家の家臣、つまり加賀藩主前田家の陪臣でありました河野家という一八〇石の知行取りの武士がいるのですが、ここの『年中行事帳』が残っております。それによりますと、この家の当主は、正月の元旦に、氏神様である下安江の住吉大神宮(現安江住吉神社)へ裃姿でお初穂を持って初詣に赴き、翌二日には、壇那寺の寺町の開禅寺(曹洞宗)に年頭のあいさつに行っております。(中略)また金沢には、江戸時代において既に伊勢の御師によって、たくさんの大神宮(伊勢神宮)の御札が配布されているわけでして、加賀国で一番多いのが外宮(げくう)の松木神社で、四万一四三〇戸の檀家を有しております。今ほど申しました加賀藩前田家の陪臣でありました河野家は、能登で多くの檀家を持っておりました伊勢外宮の釜谷大夫の壇那で、金沢では八〇軒ぐらいしかなかったようですが、ここから毎年大神宮の御札が届けられていました。」
河野姓の者は何でも当たってみるというか、本拠が能登で、長家の家臣であったことに眼が向かう。
東北のみならず、北海道のあちこちで、珠洲焼きが発掘されている時代性を考えさせられる。
この長一族をじっくり調べるのも面白いかもしれません。
2011年10月14日
メモ 5-2
【物語として読む『新羅之記録』】
・「信広朝臣二十一歳の秋、寶徳三年三月二十八日密かに国を夜中に出づ。」とある。
これは佐々木繁綱と工藤祐長の「計略に依るなり」と記された具体的な年月が、奇妙に映る。
親父の正確な誕生日さえ書いてないのに、何代も前の武田信広の記述があるのだ。そこから推定するなら、信広は1430 年の生まれと想像できる。河野政通はすでに30半ばから40代そこそこの年齢だろうか。信広は享徳元年三月に田名部に来て、蠣崎を知行して後、伊駒安東太政季と同心して、八月廿八日に蝦夷地へ渡る。この件については年月を記した書物が残されていたのだろう。
それは措くとして、河野季通が生まれていたかどうかは、まだわからない。肝心なことを書いてないのだ。
この伊駒政季朝臣は「十三湊盛季の舎弟安東四郎道貞の息男潮潟四郎重季の嫡男なり。十三湊破滅の節弱冠にして生虜られ、糠部の八戸にて名を改め、安東太政季と号し、田名部を知行し家督を継ぐ。而して蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉政通、計略を以て同年八月二十八日大畑より出船して狄の嶋に渡るなり。」とも書かれている。
以上の一件でもわかるように、文献として見れば、およそ統一性に欠け、信憑性も疑われるのだが、歴史家はこの謎を解きほぐすこともせず、矛盾のある筋立ての一部を拝借して、松前藩史の土台にすえている。私もさんざん悩まされたけども、出来が悪いと思えば致し方ない。
そこで推測すべきは、書かれなかった部分の裏事情である。これには答えがない。
たとえば、上ノ国の代官(城代)となった南条広継の系譜では、祖父の季継は脇元館にいた。安東系の「季」がつく館主は一代かぎりの人もいるので、おそらく同世代と考えてよいだろう。厚谷季政―季貞、相原季胤、村上季儀、蔣土季成、河野季通などがいる。しかし、蠣崎は季広の代まではいない。武田信広―蠣崎光広―義広―季広―慶広となる。南条家は季継―光継―広継と来て、この広継に季広の長女が嫁ぐ。
結果として、季広は「外戚政治」に長けた人物と評してもよいが、第一子の長女を嫁がせるにあたって、そんな考えはなかったろう。上ノ国の南条を抑えるため、早々に娘を配したという見方もできる。その長女が弟二人に毒を盛ったのは、長子でありながら家督を継げない恨みであったと『新羅之記録』は説明するが、コトはそう簡単でないだろうと思う。娘個人の恨み辛みを根拠にするなら、父の季広とも確執があったはずで、毒を盛る事件の背景として、次男の元広が白い犬を可愛がる姿が、侍にあるまじきと季広の近習の「丸山某」が陰口を叩いた逸話が挿入されている。が、後世の門晶庵事件でも、丸山清康という藩士が登場する。それは措くとして、南条基広が誅殺された時点で、蠣崎と南条は主家を争う間柄にあった、と見ることができるかもしれない。実力はともかく、気風としての話である。系図の上では継広と長女が生害した後は宗継が残るけれども、男子がなく、村上家から宗卿が来て南条を名乗る。が、その信憑性は定かでない。
話を主人公に戻して、慶広についての記述を咀嚼すると、三男であったこと、浪岡の北畠具運(顕慶)に拝謁して帰属したこと、もともと河野系を継ぐ立場にあったことが前提となる。京都の公家衆とのつながりについても、廻船商人の他に、こちらのルートもあったろう。寺社を多く建立した際に、専門の職人を呼び寄せたとも思われる。この時代、津軽の油川が文化や宗教の拠点でもあった。南部・秋田・津軽の地図を鎌倉期まで戻し、国司やら地頭の分布と時衆や真宗のひろがりを比較しながら、読み解く方法もないではない。
しかし、海洋に主眼をおく私は海運にこだわり、いかなる事象も物流の観点から見直すことにしている。
・「信広朝臣二十一歳の秋、寶徳三年三月二十八日密かに国を夜中に出づ。」とある。
これは佐々木繁綱と工藤祐長の「計略に依るなり」と記された具体的な年月が、奇妙に映る。
親父の正確な誕生日さえ書いてないのに、何代も前の武田信広の記述があるのだ。そこから推定するなら、信広は1430 年の生まれと想像できる。河野政通はすでに30半ばから40代そこそこの年齢だろうか。信広は享徳元年三月に田名部に来て、蠣崎を知行して後、伊駒安東太政季と同心して、八月廿八日に蝦夷地へ渡る。この件については年月を記した書物が残されていたのだろう。
それは措くとして、河野季通が生まれていたかどうかは、まだわからない。肝心なことを書いてないのだ。
この伊駒政季朝臣は「十三湊盛季の舎弟安東四郎道貞の息男潮潟四郎重季の嫡男なり。十三湊破滅の節弱冠にして生虜られ、糠部の八戸にて名を改め、安東太政季と号し、田名部を知行し家督を継ぐ。而して蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉政通、計略を以て同年八月二十八日大畑より出船して狄の嶋に渡るなり。」とも書かれている。
以上の一件でもわかるように、文献として見れば、およそ統一性に欠け、信憑性も疑われるのだが、歴史家はこの謎を解きほぐすこともせず、矛盾のある筋立ての一部を拝借して、松前藩史の土台にすえている。私もさんざん悩まされたけども、出来が悪いと思えば致し方ない。
そこで推測すべきは、書かれなかった部分の裏事情である。これには答えがない。
たとえば、上ノ国の代官(城代)となった南条広継の系譜では、祖父の季継は脇元館にいた。安東系の「季」がつく館主は一代かぎりの人もいるので、おそらく同世代と考えてよいだろう。厚谷季政―季貞、相原季胤、村上季儀、蔣土季成、河野季通などがいる。しかし、蠣崎は季広の代まではいない。武田信広―蠣崎光広―義広―季広―慶広となる。南条家は季継―光継―広継と来て、この広継に季広の長女が嫁ぐ。
結果として、季広は「外戚政治」に長けた人物と評してもよいが、第一子の長女を嫁がせるにあたって、そんな考えはなかったろう。上ノ国の南条を抑えるため、早々に娘を配したという見方もできる。その長女が弟二人に毒を盛ったのは、長子でありながら家督を継げない恨みであったと『新羅之記録』は説明するが、コトはそう簡単でないだろうと思う。娘個人の恨み辛みを根拠にするなら、父の季広とも確執があったはずで、毒を盛る事件の背景として、次男の元広が白い犬を可愛がる姿が、侍にあるまじきと季広の近習の「丸山某」が陰口を叩いた逸話が挿入されている。が、後世の門晶庵事件でも、丸山清康という藩士が登場する。それは措くとして、南条基広が誅殺された時点で、蠣崎と南条は主家を争う間柄にあった、と見ることができるかもしれない。実力はともかく、気風としての話である。系図の上では継広と長女が生害した後は宗継が残るけれども、男子がなく、村上家から宗卿が来て南条を名乗る。が、その信憑性は定かでない。
話を主人公に戻して、慶広についての記述を咀嚼すると、三男であったこと、浪岡の北畠具運(顕慶)に拝謁して帰属したこと、もともと河野系を継ぐ立場にあったことが前提となる。京都の公家衆とのつながりについても、廻船商人の他に、こちらのルートもあったろう。寺社を多く建立した際に、専門の職人を呼び寄せたとも思われる。この時代、津軽の油川が文化や宗教の拠点でもあった。南部・秋田・津軽の地図を鎌倉期まで戻し、国司やら地頭の分布と時衆や真宗のひろがりを比較しながら、読み解く方法もないではない。
しかし、海洋に主眼をおく私は海運にこだわり、いかなる事象も物流の観点から見直すことにしている。
2011年10月13日
メモ 5―1
【物語として読む「新羅之記録」】
北海道内には、これより古い史料がないという理由だけで、半信半疑ながら文献で歴史を組み立てる危うさについて考えてみる。無論、文飾の内実を吟味する際に対比される、津軽や南部に残された史料の信憑性も同様に疑ってかかるべきだろう。だが、こうした設問そのものが、意味を持つものか否かという前提に立てば、私は一級と称される他の文献と同じく懐疑的だ。むしろ、一言一句の謎解きに明け暮れて、いたずらに歳月を費やしてしまった末に、こいつは出来の悪い物語だと観念したときから、作者の松前景広について思いを向けるようになった。
景広は、自身が見聞きした事について、臨場感のある書き方をしている。親父の慶広から聞いたと思われる、浅利義正を誘殺した一件や、実兄の数馬介が誅殺された件などは、芝居にも書き移せるほどだ。そして河野系松前氏を継ぐにあたり、古書を集めて勉強もした。私もまた、江戸の初期に景広が入手できたであろう書物を探し、照らし合わせた。宗教や思想的な背景も、できうるかぎり調べてみた。それは松前景広という男の心中をなぞってみなければ、「新羅之記録」に対する態度が定まらないからであった。
現在、当たり前のように流布している「蝦夷地の歴史」に関しても、疑問は数多くある。
たとえば、下国安東家政、あるいは茂別家政と呼ばれる人物は、安東季政の舎弟とされているが、本当なのか? この男に「季」の字がついていないのは何故か? コシャマインの乱が起きた(として)上ノ国はともかく、茂別の館が残ったのはどうしてか?
コシャマインという酋長が実在した上での仮定だが、「5万分の1」の地図を何枚か貼り合わせ、他の館が陥落した事情や、何よりも地形的な観点から、攻め落とせなかった理由をあれこれ考えてみたが、私には合点のいく答えが出なかった。箱館を落とすほどなら、近くの茂別などは簡単に攻略できたはずである。知内の穏内館を落としていれば、いささか狭いながらも山中と海岸線から、挟み撃ちするのは可能だ。茂別にだけ強力な手勢がいたという記述もない。それと同時に、武田信広が進軍したとされるルートも、地図でたどるかぎり、納得のいくものではない。相手は毒性の強いトリカブトの矢を放ち、山中の地形にも詳しく、その気になれば城下を焼き討ちにもできたろう。
あらためて断るまでもなく、中世から江戸の初期までは、武力において圧倒的に古来民(あえて「アイヌ」とは言わない)が勝っていた。
それと似たような観点から指摘するなら、蝦夷地のような寒冷地に住むこと自体が、未だに大変なのである。津軽海峡の北にある大地などとは考えないでいただきたい。ここは温帯ではなく、亜寒帯なのだ。はじめに海峡によって隔てられたブランキストン線があり、昆虫や植物の分布から河野広道博士が提唱した河野ライン(石狩~苫小牧に至る低湿地帯による分類)がある。
さらに精神風土という曖昧な言い方しかできないが、箱館・松前・江差などの「道南」は、明治期に開拓された小樽や札幌などの道央圏より、陸奥との交流が往昔からあり、文化圏としてはそちらに属する。
また、日本海には対馬海流があり、南の漂流物は容易に流されてくる一方、津軽海峡を渡るのは至難の業である。河野翁(本道さん)は丸木船でも渡れるというが、江戸時代に藩主が参勤交代で海峡を渡る際には、日和をえらんで何事もなく対岸についたら大砲を鳴らしたほどだった。それと大差ない状態が、青函トンネルの開通まで続き、今では当たり前に思えることが、不便極まるものであった。実際、私が高校の修学旅行で京都へ行ったときは、青函連絡船に乗り換え、東北本線を夜行列車で走り、うんざりするほど長い時間をかけて京都に行き着いた。以来、私は東北で列車に乗ることを拒絶してきたくらいだ。
つまり、私が言いたいのは、慶広が幾度となく上洛したり、瀬戸内を通って名護屋城まで足を伸ばしたり、思う存分に海運を利用した背景には、修学旅行でへばった私などには想像もつかない行動力があり、それを可能にした廻船商人との結びつきが強い、としか考えようがない。
その結びつきは、戦国時代よりも古く、少なくとも信長・秀吉・家康たちの前世代に、確立していたのではないか。さらに、その前かも知れない。これぞという傍証は示せないが、私の推測では、河野政通は1410~20年頃に生まれたと思う。生まれがどこかは分からない。理由もなく、みずから加賀守を自称したのではなく、遠祖が加賀(おそらく江沼郡)にいたとすれば、親父や祖父が本拠にして、蝦夷地へ移る前にまず陸奥へ移動し、南部の縁者となって、箱館に進出した。むろん、これは私見だが、どうも政通が箱館の初代とは思えないのである。父親がすでに田名部や大畑に地歩を築き、政通の代に箱館を確立した。ということは、蝦夷地の産物を集積する最大の港を手中に収めるまでになっていたと思われる。それは支配地というより、商業港としての拠点である。
「海族衆」の特徴は、絶えず拠点を移すところにある。栄えていた港が突然、火が消えたようになるのだ。
安東氏のわかりにくさもそこにある。十三湊については、津波による港湾の崩壊と思われていたが、そうではないことが発掘の調査で明らかになりつつある。私の仮説にしても、最小の枠で考えたものであって、西は余市から東は鵡川まで、交易船が往来していたのが本当だとすれば、その間にいくつも港が栄えていた可能性が高い。余市や鵡川から、一度も寄港することなく、箱館まで廻船がやってくることはない。方々で商いをしながら、産物を集めて箱館に戻り、そこから北前船のルートに沿って海峡を下り、十三湊や秋田、酒田、直江津などに寄って、能登をまわり、若狭まで往来したように思う。
それくらいのスケールで俯瞰しないと、道南十二館の成り立ちが、なかなか見えてこない。
北海道内には、これより古い史料がないという理由だけで、半信半疑ながら文献で歴史を組み立てる危うさについて考えてみる。無論、文飾の内実を吟味する際に対比される、津軽や南部に残された史料の信憑性も同様に疑ってかかるべきだろう。だが、こうした設問そのものが、意味を持つものか否かという前提に立てば、私は一級と称される他の文献と同じく懐疑的だ。むしろ、一言一句の謎解きに明け暮れて、いたずらに歳月を費やしてしまった末に、こいつは出来の悪い物語だと観念したときから、作者の松前景広について思いを向けるようになった。
景広は、自身が見聞きした事について、臨場感のある書き方をしている。親父の慶広から聞いたと思われる、浅利義正を誘殺した一件や、実兄の数馬介が誅殺された件などは、芝居にも書き移せるほどだ。そして河野系松前氏を継ぐにあたり、古書を集めて勉強もした。私もまた、江戸の初期に景広が入手できたであろう書物を探し、照らし合わせた。宗教や思想的な背景も、できうるかぎり調べてみた。それは松前景広という男の心中をなぞってみなければ、「新羅之記録」に対する態度が定まらないからであった。
現在、当たり前のように流布している「蝦夷地の歴史」に関しても、疑問は数多くある。
たとえば、下国安東家政、あるいは茂別家政と呼ばれる人物は、安東季政の舎弟とされているが、本当なのか? この男に「季」の字がついていないのは何故か? コシャマインの乱が起きた(として)上ノ国はともかく、茂別の館が残ったのはどうしてか?
コシャマインという酋長が実在した上での仮定だが、「5万分の1」の地図を何枚か貼り合わせ、他の館が陥落した事情や、何よりも地形的な観点から、攻め落とせなかった理由をあれこれ考えてみたが、私には合点のいく答えが出なかった。箱館を落とすほどなら、近くの茂別などは簡単に攻略できたはずである。知内の穏内館を落としていれば、いささか狭いながらも山中と海岸線から、挟み撃ちするのは可能だ。茂別にだけ強力な手勢がいたという記述もない。それと同時に、武田信広が進軍したとされるルートも、地図でたどるかぎり、納得のいくものではない。相手は毒性の強いトリカブトの矢を放ち、山中の地形にも詳しく、その気になれば城下を焼き討ちにもできたろう。
あらためて断るまでもなく、中世から江戸の初期までは、武力において圧倒的に古来民(あえて「アイヌ」とは言わない)が勝っていた。
それと似たような観点から指摘するなら、蝦夷地のような寒冷地に住むこと自体が、未だに大変なのである。津軽海峡の北にある大地などとは考えないでいただきたい。ここは温帯ではなく、亜寒帯なのだ。はじめに海峡によって隔てられたブランキストン線があり、昆虫や植物の分布から河野広道博士が提唱した河野ライン(石狩~苫小牧に至る低湿地帯による分類)がある。
さらに精神風土という曖昧な言い方しかできないが、箱館・松前・江差などの「道南」は、明治期に開拓された小樽や札幌などの道央圏より、陸奥との交流が往昔からあり、文化圏としてはそちらに属する。
また、日本海には対馬海流があり、南の漂流物は容易に流されてくる一方、津軽海峡を渡るのは至難の業である。河野翁(本道さん)は丸木船でも渡れるというが、江戸時代に藩主が参勤交代で海峡を渡る際には、日和をえらんで何事もなく対岸についたら大砲を鳴らしたほどだった。それと大差ない状態が、青函トンネルの開通まで続き、今では当たり前に思えることが、不便極まるものであった。実際、私が高校の修学旅行で京都へ行ったときは、青函連絡船に乗り換え、東北本線を夜行列車で走り、うんざりするほど長い時間をかけて京都に行き着いた。以来、私は東北で列車に乗ることを拒絶してきたくらいだ。
つまり、私が言いたいのは、慶広が幾度となく上洛したり、瀬戸内を通って名護屋城まで足を伸ばしたり、思う存分に海運を利用した背景には、修学旅行でへばった私などには想像もつかない行動力があり、それを可能にした廻船商人との結びつきが強い、としか考えようがない。
その結びつきは、戦国時代よりも古く、少なくとも信長・秀吉・家康たちの前世代に、確立していたのではないか。さらに、その前かも知れない。これぞという傍証は示せないが、私の推測では、河野政通は1410~20年頃に生まれたと思う。生まれがどこかは分からない。理由もなく、みずから加賀守を自称したのではなく、遠祖が加賀(おそらく江沼郡)にいたとすれば、親父や祖父が本拠にして、蝦夷地へ移る前にまず陸奥へ移動し、南部の縁者となって、箱館に進出した。むろん、これは私見だが、どうも政通が箱館の初代とは思えないのである。父親がすでに田名部や大畑に地歩を築き、政通の代に箱館を確立した。ということは、蝦夷地の産物を集積する最大の港を手中に収めるまでになっていたと思われる。それは支配地というより、商業港としての拠点である。
「海族衆」の特徴は、絶えず拠点を移すところにある。栄えていた港が突然、火が消えたようになるのだ。
安東氏のわかりにくさもそこにある。十三湊については、津波による港湾の崩壊と思われていたが、そうではないことが発掘の調査で明らかになりつつある。私の仮説にしても、最小の枠で考えたものであって、西は余市から東は鵡川まで、交易船が往来していたのが本当だとすれば、その間にいくつも港が栄えていた可能性が高い。余市や鵡川から、一度も寄港することなく、箱館まで廻船がやってくることはない。方々で商いをしながら、産物を集めて箱館に戻り、そこから北前船のルートに沿って海峡を下り、十三湊や秋田、酒田、直江津などに寄って、能登をまわり、若狭まで往来したように思う。
それくらいのスケールで俯瞰しないと、道南十二館の成り立ちが、なかなか見えてこない。
2011年10月12日
メモ 3―2
河野翁から涌元古銭について、以下の続報を頂戴した。
函館高専埋蔵文化財研究会がベトナムの開泰元寳発見!
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函館高専の埋蔵文化財研究会が、知内(しりうち)町から見つかった涌元(わきもと)古銭を調査していたところ、平成23年5月15日に、ベトナム陳朝の「開泰元寳(かいたいげんぽう:1324年初鋳)」を発見しました。このお金は日本では初めての出土となります。
この涌元古銭は、今から60年ほど前に知内町の道路工事中に見つかり、知内町郷土資料館に997枚が寄贈されていましたが、これまで調査がされていませんでした。これを中村和之教授が借り受けました。
埋蔵文化財研究会は、借り受けた3年前からずっとこの調査を行っており、今回はメンバー4名にお話を聞くことができました。
物質工学科4年の千葉元気(もとき)さんは、1年の時から入部し涌元古銭の調査にも最初から携わっており、今回の開泰元寳を実際に発見した学生です。千葉さんは今の心境を「大きな発見をし、普通の高専生活では味わえない経験をしました。関われてうれしいのですが、同じことの繰り返しの中で新しいものをたまたま発見しただけなので実感はまだわいていません。」と語っており、また今後の展開については、「まだ997枚のうち670~680枚しか調べておらず、まだ終わっていません。今後は残りの調査のスピードを上げ、小さくてもまた新しい発見をするなどして楽しんでいければと思います。」と抱負を述べていました。
物質工学科3年の北村茉友(まゆ)さんは、 「埋蔵文化財研究会に興味はあったのですがなかなか入れず、新入生歓迎会を見て「入ろう」と思い、今年の4月に入部しました。」と入部の経緯を語り、入部してすぐに新しい発見に立ち会えたことについては 「ラッキーというよりもむしろ驚きです。X線装置で今後も積極的に調べていきたい。」 と話していまた。
物質工学科1年の杉本紬(つむぎ)さんは今回お話を聞いた中では最年少で、今後も長く様々な調査に関わることになりますが、「小学生のころに参加した公開講座(平成18年度:掘ろう!函館の縄文遺跡<中村和之教授>)で発掘イベント(南茅部臼尻C遺跡)に参加して、それがきっかけで埋蔵文化財研究会に入りたくて高専に入学しました。今後もいろいろなものを調べていきたい。」と今後に期待を寄せていました。
最後に専攻科生産システム工学専攻1年の渡邉惠太さんは情報工学科出身で、拓本を取り古銭に書かれている字から判別できた文字をもとに300種程度ある古銭から該当するものを予測するソフトの開発に関わっ
ており、 「X線装置といった普段扱うことのない機械に触り、高専生活を送る中では味わえないものを経験できた。」と感想を述べていました。
埋蔵文化財研究会はこれから残りの涌元古銭300枚程度の調査を行い、その次には日高町で発見された賀張(かばり)古銭を調査することが決まっています。今後のさらなる活躍に期待しましょう。
(この発見につきましては、函館新聞、北海道新聞、毎日新聞、朝日新聞(掲載日順)にも記事が掲載されました。)
ベトナム陳朝 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%9C%9D
年代に注意すると、本来は安東氏の本拠地であった檜山や土崎あたりで見つかっても不思議ではない。
ベトナムの古銭が北海道の知内で発見された背景を考えると、従来の黒竜江の河口にあった交易場から南下してきたよりは、沿海州のどこか大陸から渡ってきた可能性が高い、と私は思う。
そこに「倭寇」の動きを重ねてみたい誘惑に駆られるが、いかがだろう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87
いわゆる「渡党」の一部が「倭寇」として、交易とは別に海賊行為をしていたとする仮説である。
河野翁は様々な史料から、河野政通の生年を1410年頃と推察している。
函館の史料を眺めると、以下のような認識がある。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-02-00-05.htm
いずれにしろ、こうした考古学の視点からの発見を積み重ねることで、海千山千の「歴史」は書き替えられる。
追記:河野翁の見方は、「ベトナムの古銭にしろ、重さや枚数が交易の対価として使われた可能性があり、単に本州で見つかっていないだけで、本来は本州や九州に到達したものが、他の古銭に混じって知内まで流れてきたのではないか」というもの。十年来の争点である、倭寇説には相変わらず反対です。
素直に考えれば、南蛮交易の副産物が博多・若狭から、蝦夷地へ渡来したということでしょう。
福島町史は読んだけれど、知内町の歴史的な背景をもう一度、探ってみます。というのも、いわゆる「和人の範囲」を知内と定めた時期があったのですが、よくよく思い返してみれば、どうして知内なのか。ここにはチコモタインという酋長がいたことになっていますが、そうするとこの涌元館は古来民のものかもしれない。涌元=脇元の由来を考え直すということです。
追記2:まあ、新潟などにあっても不思議はないですね。http://assabu.exblog.jp/16380416/
函館高専埋蔵文化財研究会がベトナムの開泰元寳発見!
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函館高専の埋蔵文化財研究会が、知内(しりうち)町から見つかった涌元(わきもと)古銭を調査していたところ、平成23年5月15日に、ベトナム陳朝の「開泰元寳(かいたいげんぽう:1324年初鋳)」を発見しました。このお金は日本では初めての出土となります。
この涌元古銭は、今から60年ほど前に知内町の道路工事中に見つかり、知内町郷土資料館に997枚が寄贈されていましたが、これまで調査がされていませんでした。これを中村和之教授が借り受けました。
埋蔵文化財研究会は、借り受けた3年前からずっとこの調査を行っており、今回はメンバー4名にお話を聞くことができました。
物質工学科4年の千葉元気(もとき)さんは、1年の時から入部し涌元古銭の調査にも最初から携わっており、今回の開泰元寳を実際に発見した学生です。千葉さんは今の心境を「大きな発見をし、普通の高専生活では味わえない経験をしました。関われてうれしいのですが、同じことの繰り返しの中で新しいものをたまたま発見しただけなので実感はまだわいていません。」と語っており、また今後の展開については、「まだ997枚のうち670~680枚しか調べておらず、まだ終わっていません。今後は残りの調査のスピードを上げ、小さくてもまた新しい発見をするなどして楽しんでいければと思います。」と抱負を述べていました。
物質工学科3年の北村茉友(まゆ)さんは、 「埋蔵文化財研究会に興味はあったのですがなかなか入れず、新入生歓迎会を見て「入ろう」と思い、今年の4月に入部しました。」と入部の経緯を語り、入部してすぐに新しい発見に立ち会えたことについては 「ラッキーというよりもむしろ驚きです。X線装置で今後も積極的に調べていきたい。」 と話していまた。
物質工学科1年の杉本紬(つむぎ)さんは今回お話を聞いた中では最年少で、今後も長く様々な調査に関わることになりますが、「小学生のころに参加した公開講座(平成18年度:掘ろう!函館の縄文遺跡<中村和之教授>)で発掘イベント(南茅部臼尻C遺跡)に参加して、それがきっかけで埋蔵文化財研究会に入りたくて高専に入学しました。今後もいろいろなものを調べていきたい。」と今後に期待を寄せていました。
最後に専攻科生産システム工学専攻1年の渡邉惠太さんは情報工学科出身で、拓本を取り古銭に書かれている字から判別できた文字をもとに300種程度ある古銭から該当するものを予測するソフトの開発に関わっ
ており、 「X線装置といった普段扱うことのない機械に触り、高専生活を送る中では味わえないものを経験できた。」と感想を述べていました。
埋蔵文化財研究会はこれから残りの涌元古銭300枚程度の調査を行い、その次には日高町で発見された賀張(かばり)古銭を調査することが決まっています。今後のさらなる活躍に期待しましょう。
(この発見につきましては、函館新聞、北海道新聞、毎日新聞、朝日新聞(掲載日順)にも記事が掲載されました。)
ベトナム陳朝 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%9C%9D
年代に注意すると、本来は安東氏の本拠地であった檜山や土崎あたりで見つかっても不思議ではない。
ベトナムの古銭が北海道の知内で発見された背景を考えると、従来の黒竜江の河口にあった交易場から南下してきたよりは、沿海州のどこか大陸から渡ってきた可能性が高い、と私は思う。
そこに「倭寇」の動きを重ねてみたい誘惑に駆られるが、いかがだろう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87
いわゆる「渡党」の一部が「倭寇」として、交易とは別に海賊行為をしていたとする仮説である。
河野翁は様々な史料から、河野政通の生年を1410年頃と推察している。
函館の史料を眺めると、以下のような認識がある。
http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-02-00-05.htm
いずれにしろ、こうした考古学の視点からの発見を積み重ねることで、海千山千の「歴史」は書き替えられる。
追記:河野翁の見方は、「ベトナムの古銭にしろ、重さや枚数が交易の対価として使われた可能性があり、単に本州で見つかっていないだけで、本来は本州や九州に到達したものが、他の古銭に混じって知内まで流れてきたのではないか」というもの。十年来の争点である、倭寇説には相変わらず反対です。
素直に考えれば、南蛮交易の副産物が博多・若狭から、蝦夷地へ渡来したということでしょう。
福島町史は読んだけれど、知内町の歴史的な背景をもう一度、探ってみます。というのも、いわゆる「和人の範囲」を知内と定めた時期があったのですが、よくよく思い返してみれば、どうして知内なのか。ここにはチコモタインという酋長がいたことになっていますが、そうするとこの涌元館は古来民のものかもしれない。涌元=脇元の由来を考え直すということです。
追記2:まあ、新潟などにあっても不思議はないですね。http://assabu.exblog.jp/16380416/
















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